人間は自然の“細胞分裂”によって生み出されたものであるが故に、自然即自分であるという認識によって生きるのが、まっとうな生き方であることは、人間の死を”自然に還る”と表現することに含意されている。 人・モノ・金がますます都市部に集中していく現代。そんな時代に生きながら、たまにふと「自然と人間の関係」に思いを巡らせることがある。このテーマではいつも、心の奥底の、言葉にならないような深いところで感じている感覚がありながら、言葉にしたことはほとんどない。通勤電車の中、都内に近づくに従って減ってゆく自然を見ながら感じている感覚の言語化を、今日は試みてみたいと思う。※なお、この記事でいう「自然」は、人間の手が加えられなくても自生する木々や植物などを指します。, 今の都市部の風景を見てみると、自然に存在しているものは限りなく少なく、ほとんどが人間の手によって作られた人工物。ビルも、道路も、住宅も。道端の木々でさえも、後から人間が植えたものになっている。都市からどんどん離れていくと、この風景は対象的なものになる。人の姿はまばらで、高い建物はなく、ひたすら田んぼや畑が広がっている。夜は街灯の明かりも少なく、星空や月明かりの明るさしかない世界。その2つの光景を対比すると、人間の中に自然があるのか?自然の中に人間が暮らしているのか?一体そのどっちなんだろう?という素朴な疑問が湧いてくる。きっとその答えは後者で、本来、人間は自然の中の一部であるべき存在なんだろうと思う。太陽の光や水、農作物を始め、自然の恵みがなければ人間は生きていけないし、それは人間がどんな経済システムの下で生きようと変わらない構造だと思う。人間が自然の上位に立ち、自然をコントロールする立場なのではなく、「自然」という大きな枠組みの中に「人間」という一つの生物が存在している。「自然」がなければ「人間」は存在できないということが、当たり前なようで僕たちが忘れている、大切な本質なんじゃないだろうか。, 首都圏、特に東京23区の住宅地を見ると、所狭しと住宅が立ち並んでいて、自然は申し訳程度に植えられている。街路樹や各住宅のベランダに置かれている植木など、人工的に植えられた自然は、僕の目からすると、都市一極集中の流れへの人間の心の抗いのようであり、なにか切り崩した自然への贖罪のようにも感じる。少なくとも都市部では、(経済合理性の要請があるとはいえ)必要以上に自然を切り崩しすぎて人々の心は渇ききっていて、そこに暮らす人々はもう一度その心を潤すために自然を求めているような気がする。人工的に植えた自然から直接農作物などの恵みは受けなくとも、自然を求め、必要とする気持ちは、人間にとって極めて自然な反応のように思う。僕たちは資本主義経済の檻の中で貨幣がなければ生活していけない存在である前に、人間という一つの生物なんだろう。, 反対に、都市部に人工的に植えられていく木々の立場から見てみると、彼らはどんな目的で、どこに植えられようと、置かれた場所で懸命に生を全うしようとする。文句を言うこともふてくされることもなく置かれた場所で咲くそのあり方は、僕にはなんだかとても健気に思えて、「どうして人間はこんなに文句ばかり言って生きているんだろう」と、少し恥ずかしいような気持ちになる。, 確かに木々や草花は、人間と違って心や感情を持たないのかもしれない。それでも本能的に生きようとしている点は人間と変わらないし、仮にその本能が満たされなくても、ただ枯れて生涯を全うする。人間には良くも悪くも心があり、感情がある。だからこそ、自己保全のために「恐怖心」や「欲」が生まれ、そうした感情が複数の人間関係の中で複雑に絡み合って、恨んだり恨まれたり、腹を立てたりする。「生きている」という意味では木々や草花と人間は同じ存在でありながら、「自分以外の存在に何かを求めているか・いないか」という点でこの両者はあまりにも違う。この2つを同列に語るのがあまりに粗いことは確かだけど、少なくとも僕は、人間でいながらも自然の「あり方」に学び、それに自分の生き方やあり方を近づけていきたいと思う。, 資本主義経済の中で、今は人間の不安や欲に自然が飲み込まれていっている構図は、都市部に近づくほど顕著だ。でも、本来のあり方は「自然の一部として人間が存在する」という構図であって、このパラダイムが崩れるほど自然が損なわれたとき、人間が自分の生を保つことができなくなるような反動が、自然の側からもたらされるような気がする。温暖化は最たる例だろうけど、それ以外にも、確実に見えないところである種の"反動の蓄積"が進んでいるような気がしてならない。, そんな中、一人の人間として自然との共生関係をどう築いていくか。「人類」を主語にして、資本主義に抗い、自然を増やしたり保全しようとしたりするのも一つ。「会社組織」を主語にして、CSR活動等で資本主義の流れに自然を飲み込もうとする動きを抑制しようとするあり方も一つ。「自分という人間」を主語にして、自らの生活のバランスを取るために生活の中に自然を取り入れていくのも一つ。色々な自然との向き合い方がある中で、自分自身はどんな向き合い方を選びたいだろう。「人類」を主語にするのが立派だとか、そうあるべきだとか言うつもりは全くない。それでも、あくまで人間は自然という大きな恵みの一部で生かしてもらっている存在であることを自覚し、自然への感謝と敬意を持って生きていくことが、人間としての最低限の勤めであるような気がする。, 仕事では、新卒で大手半導体系メーカーに入社し、リクルートキャリア→ベンチャー系人事コンサルティング会社→ITアウトソーシング会社→鉄道系グループ会社、と4回の転職を経験。繊細で真面目すぎる性格が祟って、3回の休職を経験。, 特技は感覚を言語化することと、情報を整理・分析すること。苦手分野は大勢の前で話すこと。, 「ココロを自由にするブログ」は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, yudaismさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog

所蔵館2館 22 0 obj <> endobj 官房長官会見で見過ごされたこと ��j���$Ǥ`��@�����H2��؜�`��@���9��� * 「不治の病」というイメージのあるエイズ(AIDS:後天性免疫不全症候群)を完全に駆逐できる「超免疫」ともいえる体質を持った人間の存在が明らかになりました。, 8月26日に学術雑誌「Nature」に掲載された研究によれば、この奇跡の患者はエイズを完全に自力で自然治癒させていたとのこと。, 治癒後、患者の体にはまともに動くエイズ遺伝子は存在せず、わずかに残った遺伝的痕跡すらも消えかけていたのです。, エイズはヒトの免疫を低下させますが、この奇跡の患者は、エイズウイルス(HIV:ヒト免疫不全ウイルス)の「人の免疫を低下させる機能」すら、超免疫で撃破していたことになります。, 今回の研究ではこの世界初のケースを報告すると共に、奇跡のメカニズムの解明も試みられました。, 運悪く数年で発症して亡くなってしまう人もいれば、10年・20年と力強く免疫能力を保ったまま暮らす人もいます。, これらエイズに対する生存率の違いは、抗ウイルス薬の服用の有無だけでは説明がつかず、バックグラウンドに存在する、個人の免疫能力の差のためだと考えられています。, そしてこれらエイズの病状をよくコントロールしている人々(感染者のうち0.5%)は、エリートコントローラー(以下、EC)と呼ばれるようになっていました。, そこで今回、アメリカ、ラゴン研究所の研究者たちはECと一般の患者で何が違うか調べることにしました。, ECの秘密を解き明かすことで、新たなエイズ治療薬の開発に繋がる可能性もあるからです。, 秘密を探るにあたって、研究者たちは64人のECと41人の通常の感染者の協力を仰ぎ、彼らから細胞の供与を受けました。, エイズは1本鎖RNAの遺伝子を持つレトロウイルスであり、感染すると自身の遺伝子をDNAに変換して人間の遺伝子の中に組み込み、継続的に自己複製を行うようになります。, 一方、現在流行しているコロナウイルスは細胞に感染しても、人間の遺伝子の中に自分の遺伝子を入り込ませることはありません。, 研究者たちは最初、ECに感染したエイズは一種の「弱毒化」したものだと考えていました。, 驚くべきことに、ECの遺伝子内部には、完全な形のエイズ遺伝子が一般患者と同じように挿入されていたのです。, ECの場合、ウイルス遺伝子が挿入された場所の多くが「遺伝子砂漠(ヘテロクロマチン)」と呼ばれるほとんど活動がない領域だったのです。, エイズウイルスの自己複製は人間の細胞の遺伝活性に依存しているため、不活発な地域に差し込まれたエイズ遺伝子もまた、活動することができなかったのです。, その疑問は、ある女性患者「エリートコントローラー2(以下、EC2)」の出現によって否定されました。, 彼女は24年に渡りエイズ治療薬を飲まずに健康体を維持しており、彼女の細胞には、まともな配列を維持したエイズウイルスの遺伝子が存在していなかったことが判明したのです。, ECの体に感染していたエイズの遺伝子は欠損し、不完全な残骸のような姿になり果てていました。, EC2の体内では、まともなエイズの遺伝子を組み込まれていた感染細胞が、その超免疫によって全て排除されていたのです。, このことから研究者は、EC2ほどではないにしても、ECたちの体内でも類似の反応が起き、活発な遺伝子区域にエイズ遺伝子が入り込んでしまった細胞もまた強い免疫により排除されたのだろうと予測しました。, ECの体内で、エイズ遺伝子が不活発な遺伝子区域にだけみられたのは、活発な遺伝子区域にエイズ遺伝子を持っていた感染細胞が強い免疫によって排除されていた結果だというのです。, 今回の研究により、免疫機能によってエイズ遺伝子の活動を封じ込めたり、遺伝子そのものを使い物にならないほどまで破壊できることがわかりました。, 鍵となるのは、エイズの遺伝子を取り込んだ感染細胞を、いかに効率よく排除できるかになります。, もし自然治癒者「EC2」の持つ超免疫を治療薬に組み込むことができれば、感染細胞を根絶し、エイズの遺伝子を体内から消し去ることも可能になります。, そうなれば、パートナーと避妊具なしの性行為を行い、子供を作ることも可能になるでしょう。, 世界に蔓延るエイズが、たった一人の超免疫によって駆逐される日は近いのかもしれませんね。, 「フェイスシールド」は新型コロナウイルスの飛沫を防げない可能性あり。米国が”飛沫の可視化”により検証, ミツバチ毒が「特効薬のない乳がん細胞」を100%死滅できると判明!新薬開発のカギとなるか, ミイラの「最後の晩餐」から古代エジプトの料理レシピを完全再現!料理名は”ティラピアのシチュー”, 「4つ足で歩く」毛髪よりも小さいマイクロボットが誕生、足の作りは”日本の折り紙”がヒントに, 世界初の抗生物質「ペニシリン」の元になったアオカビのDNA配列がやっと解読される!発見当時から”遺伝子が変異していた”という驚きの結果. 人間というのは自然の一部なのだそうです。 人間は、動植物の一種なわけですが、自らのことを特別な存在だと考えてしまいがちです。 人間といのは、はじめは0.2mmの細胞なのだそうです。これが細胞分裂します。 0 人間は自然の一部. Copyright Toyo Keizai, Inc., all rights reserved. 人間というのは自然の一部なのだそうです。 人間は、動植物の一種なわけですが、自らのことを特別な存在だと考えてしまいがちです。 人間といのは、はじめは0.2mmの細胞なのだそうです。これが細胞分裂します。 あなたも、先人の名言に触れて、自然について思いをめぐらせてみませんか。古今東西から選んだ40の名言、ごいっしょにどうぞ。, (4) 自然は至上の建築家である。自然の一切は最も美しい釣り合いを持って建てられている。, (5) 自然はやさしくほほえむ母のように、我々の夢を安らかに守ってくれて、空想を楽しませてくれる。, (6) 科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。, (7) 人はたとえ自然に反抗する場合でも、自然の法則には服従する。逆らってみようというときでさえ、自然とともに働くのだ。, (8) 自然に人情は露ほども無い。之に抗するものは容赦なく蹴飛ばされる。之に順ふものは恩恵に浴する。, (10) 自然の知恵から見れば、人間の賢さも愚かさもタカが知れている。そのわずかな知恵の幅の中で、いささかの賢さを誇り、いささかの愚かさを卑下してみても何になろう。, (13) 自然を愛するのは、自然が我々を憎んだり、嫉妬しないためでもないことはない。, (16) 自然はわれわれの知性にとっては限りなく驚嘆すべきことを最高度の容易さと単純さとで行なっている。, (17) 人間の心身は自然と密接に関連しあっています。だから、健全な心身を保ちたいなら、大自然のパワーを吸収する必要があります。, (18) 自然は認識の対象でもなく、意志の素材でもない。自然はそのうちに人間を包んで生きているのである。, (25) 空気も水も木も土も火もみんな命のある生き物です。黙って私たちを養ってくれています。時々は感謝の言葉をかけましょう。, (26) わたしも自然に親しむようになり、そして今、この世界に授けられた美しさを認識することができるようになった。, (28) どんなものでも、自然という造物主の手から出るときは善であり、人間の手に渡ってからは悪となる。, (30) 習慣は第二の自然だといわれているが、人は、自然が第一の習慣だということを知らない。, (31) われわれはすべて自然を観賞することばかりが多く、自然とともに生きることがあまりに少ないように思われる。, (33) 春が来ても、鳥たちは姿を消し、鳴き声も聞こえない。春だというのに自然は沈黙している。, (34) 自然が叫ばれる頻度とはうらはらに、今日ほど自然の認識の貧困の時代はない。, (35) 大地よ、お前の哀しい願いは、目に見えぬものとなって、私たちの心のうちによみがえることでないのか。, 自然は私たちを取り囲んでいます。また、自然は私たちのなかにもあります。自然とどのように相対するのかによって、私たちの人生は大きな影響を受けることになります。自然に包まれ、調和して生きていくのか。自然に打ち勝ち、管理・支配の対象とするのか…。. 自然は私たちを取り囲んでいます。また、自然は私たちのなかにもあります。自然とどのように相対するのかによって、私たちの人生は大きな影響を受けることになります。自然に包まれ、調和して生きていくのか。自然に打ち勝ち、管理・支配の対象とするのか…。 新興感染症の流行と相次ぐ異常気象。生態系への介入が引き起こす「自然の逆襲」が加速化している。私たちは自然とどのように付き合えばよいのか? 「知の巨人」立花隆氏は、デビュー作の中で「自然と折り合いをつけるために我々が学ぶべきものは、生態学(エコロジー)の思考技術だ」と投げかけている――。立花隆著『新装版 思考の技術』の一部を、再編集しお届けする。, エコロジーとは何か。本稿では、「善悪」の問題を通して考えてみたい。善悪とは、別に倫理学の命題ではない。原理的に善とは何ぞや、悪とは何ぞやということを問題にしようというのでもない。, 自然界において、われわれが悪と呼び、善と呼んでいるものは、よく考えてみれば、たいへん恣意的な善悪でしかないということをいいたいのである。, 自然はあるがままにある。全体としての自然の中には善も悪もない。自然の一部を切り取ってきて、そこに一つの座標軸をはめ込む。善悪が生じてくるのは、その後である。, 人間は、人間に対して害を及ぼすものを悪と呼んでいる。むろん、人間は人間として生きつづけねばならないのだから、それは当然といえば当然である。しかし、問題なのは、何が人間に対して害を及ぼし、何が益をもたらすかを考察するときに、考察の範囲をあまりに狭く限定してしまっていることだ。, 害虫ということばがある。人間に不快を及ぼす。人間の食物を食べてしまう。家畜、農作物の成長を阻害する。こういった生物は害虫であるといわれる。人間のためには害虫は有害無益の存在と考えられ、そこに害虫撲滅の思想が生まれる。, ここで座標軸を人間の側から、害虫と呼ばれる生物の側に移して考えてみたらどうだろう。たちまち人間こそが"害獣"であるということになるだろう。, 自然にとっては、どちらも片寄った見方でしかない。人間と"害虫"との間の闘争は、自然を構成している無数の闘争の一つの形態にすぎない。自然はそうした闘争の限りない拮抗の上に成立している。, そして、人間存在は自然の存在を前提にしているのであるから、巨視的に考えれば、害虫もまた人間に役立っているのである。. 台風で倒壊した高円寺の「ドリフうどん屋」跡地に「街の縁側」となる飲食店を!全宅ツイの挑戦, 「それぞれが自殺のない社会を」炎上の官房長官会見で見過ごされた事 大切な命を守るためのアプローチ, 立花隆と考える、自然界との正しい向き合い方 人間の価値体系を押し付けるとどうなるのか. 昔の人は、人の死を別の表現で、こう言いました。「土に還る」「還る」という言葉は、もともとあった場所に戻すという意味です。「土に戻る」「土に返却される」ということです。土は、宇宙と言い換えることができます。 私は「自然保護」という考え方に違和感を感じます。なぜなら、これは「自然」を「自分たちの管理下にある」と考える考え方だからです。(ただし、自然保護が必要ないということを言っているわけではありません。) 私たちは「自然」の一部分に過ぎません。 掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。 « 無縁化社会への回帰が進行する世界と日本の兆し | され、人間は自然に対する搾取者として振るまうようになった。つまり、人間と自然は片利片 害関係になったのである。いわば自然に対して害虫的存在になりかけているのだ。 文明という武器を手にいれた人間は、反自然的な存在である。 「ドリフうどん屋」再建へ動き 自然は私たちを取り囲んでいます。また、自然は私たちのなかにもあります。自然とどのように相対するのかによって、私たちの人生は大きな影響を受けることになります。自然に包まれ、調和して生きていくのか。自然に打ち勝ち、管理・支配の対象とするのか…。 人間は自然の一部.